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なぜ将棋?

なぜ一医院の紹介ホームページに将棋なのかということはあるのですが、将棋は私の人生の半分以上を形成してきたものであり、少し自分語りをさせてもらおうと思います。恥ずかしい事ではあるかもしれませんが、自分の将棋の実力に、医学の能力は全くかないません。一般的な小中学生の生活を送らず、高校も中退してまで自分を捧げたものなので簡単に医学が追い抜いても困るのですが。

3年〜4年生

 ルールを覚え父親に対局をせがむも忙しく、夏休み限定の将棋教室に通う事になりました。実力は全くなかったため連戦連敗、上の学年の子にはもちろん周囲の誰にも勝てませんでした。負けん気は強かったために必死に対局、本などでも作戦を練り、足繁く教室に通い続けました。そうすることで最終的にそこの教室の最上位(といっても大したことはないのですが)にも勝利を収め夏が終わりました。その後大人、こどもも含めた道場に毎日学校が終わってから電車で通い、帰りの遅い父に迎えにきてもらう生活が始まりました。その結果1年後にはアマチュアの三段レベルまで上達、通う道場も複数となりました。そこで師匠(有吉 道夫先生 今は引退)と出会う事になります。

落ち続けた奨励会試験

 当時プロで現役であった、前述の有吉先生に指導対局(駒落ちのハンデ戦)をして頂きそこで師匠の目にとまり、奨励会というプロ棋士養成期間を受験する事になりました。将棋を始めて約1年。かなり早い段階でのチャレンジでした。まだ実力が伴わないもギリギリのところで不合格。自信となりさらにアマチュアとしての研鑽を積む事になりました。そしてアマチュアにして五段程度、普通の大人ではまず勝てないと言ったレベルにまでなり翌年5年生で再受験。絶対受かると信じて受験しました。しかし前年度より悪い成績で不合格。過信が招いた失敗で帰りの新幹線の中涙したのを今でも覚えています。翌年ようやく合格。なんとかプロ棋士への一歩を踏み出す事となりました。

将棋と学業の狭間で

 無事に奨励会に入会をしましたが中々昇級出来ませんでした。最初の6級→5級のクリアに1年かかりました。勝負弱く、勝率は良くも、ここ一番で勝てませんでした。しかし5級に昇級後は吹っ切れたように中学生のうちに二段まで昇段しました。勉強も好きだったのですが、将棋と中途半端は良くないということでテスト直前以外の勉強は親から半ば禁止されている状況でした。そして中学後半ぐらいから自分自身の存在意義に疑問が生じました。エンターテイナーとしてプロ棋士を目指すのか、あるいは直接的に人に貢献するのか自問自答する日々が続きました。と言えばかっこ良く聞こえますが、あまり良くない遊び(麻雀、パチスロ…)を覚えたのもこの頃です。レベルを落として入学した高校で1番をとり、勉強の面白さに目覚めると同時に将棋の成績が落ちました。勉強はいつでも出来ると考え、親との相談の上入学後2ヶ月で高校を去る事となります。将棋1本で頑張るつもりでしたが、中途半端な気持ちにかわりはなく、将棋の成績は上がり15歳で三段となったものの、気持ちはすっきりとはしませんでした。こっそり勉強し、1年後親の許しを得て大学検定を受験し合格しました。15歳三段はそれなりのペースでしたが中途半端な気持ちでプロになれるほど将棋の世界も甘くなく、2年間足踏みとなりました。もう一度自分に問い直し、親、師匠とも相談の上棋士を目指す事をやめ、医師になる事を決めたのでした。将棋界からも驚かれましたが、この選択は今でも誤りではないと自信を持って言えます。

同期の棋士たち

 今でも将棋界には感謝をしています。厳しい礼儀作法やなどはもとより、ギリギリの中で闘う事を経験することによりちょっとやそっとのことではへこたれない忍耐力を身につける事ができました。同期には久保利明君(現役A級)矢倉規広君(六段)などがいて、今でも時々交流しています。彼らの活躍を願っています、とは言っても皆おっさんになりましたが。

将棋と勉強

 今思えば、両立しながら医者ではないにしろ、理系の何がしの専門性を持ちつつ将棋をするという選択もあったかもしれません。二兎を追えば将棋は一流にはなれなかったかもしれませんが。よく、大検からの独学での医学部受験に感心されることがあります。将棋は相手がおり、全く先の見えない世界でしたが、受験は違いました。最初はそれこそ偏差値50にも満たない状況からのスタートでしたが、ある程度決まった量の学習を進めるのみで成績は上昇します。勿論簡単には合格レベルには達しませんでしたが、将棋で上手くいかずもがいていたことを考えると特にしんどいと感じたことはありませんでした。